超多忙な施術者、大腿骨頸部骨折と戦う
1年間ほどほぼ休みのない中、睡眠も不規則かつ短くて、知らないうちに疲労していた私はある日突然、何もないところで転んだ。猛烈な痛みで動くことも難しくなってしまった。
それから数日の治療の予約は全てキャンセルをさせてもらい、ひたすら臥床して痛みが引くのを待ったが、痛みはひどくなる一方で自分の疲労は溜まる一方。
5日目に長女のほほに連絡すると、横浜からすっ飛んで来てくれて、手早く食事や排泄、着替えなどの世話をしてくれてようやく人心地がつき、次の道を考える余裕が生まれた。
結局、娘の説得により救急車で病院に行くと、
左大腿骨頸部骨折
との診断であった。
要は足の付け根の部分の骨が折れており、元のように歩けるようになるためには関節部を人工のものに置き換える手術が必要とのこと。
「いつ退院できますか?お正月明けには、仕事を再開したいのですが。」
嬉しいことに、「洋子先生の施術でないと受けない」と言ってくださる患者さんが多く、とりあえず数日の仕事はキャンセルしていたが、施術の再開を待ちきれない患者さんからの連絡が途絶えない状況であったのである。
「まずここで3週間くらい入院して、それからリハビリ病院に転院して1ヶ月〜3ヶ月で退院がオーソドックスですね。」
医師は表情を変えずにパソコンを見ながら私に残酷な未来を告げる。
「私はリハビリ病院には行きません。3週間でここを退院できるのであれば、すぐに自宅に帰ります。私の娘はリハビリテーション病院で働いていたベテランの介護福祉士で、私は治療家ですよ?何とかならないわけがありません。」
医師は無機質に「とにかく手術をしましょう。」とだけ言い、診察は終わった。
私は入院の病棟に移されるまでの間、その場で患者さんたちに連絡をし始めた。
「急用で迷惑をかけましたが、1月7日から治療を再開しますよ。」
と、今回キャンセルをしてしまった患者さんを中心に電話をかけ続け、まさかの自分が治療が必要な状態の時に、新年の過密なスケジュールを作り上げてしまったのであった。
びっくりしていたのは長女である。
「え、私が仕事をキャンセルして、母の在宅介護をしろってこと?」
いろんなことでショックを受けていた長女は、次の日からコロナにかかって東海市の自宅で寝込んでしまった。まさかの私が足の痛みに耐えながら転がっていたリビングで、である。
長女の看病は最初の頃はもっぱら犬がしてくれたらしく、つくづく動物は人間の究極の癒しなのだと思い知るのであった。(後半は、私の妹が長女を救った。)
長女は「この状態でお母さんが退院してくるのは無理!」と弱音を吐いたが、私は1月7日の患者さんのためにも負けるわけにはいかない。
いったんは、連絡を取るのをやめて自分のリハビリとセルフ治療に専念し、1月3日にはすでに1日病棟を30週できるくらい歩けるようになっていたところで再度長女に連絡をとり、
「もう歩けるから退院するよ。」
と、伝えた。長女は病院のスタッフと連絡を取り、正式に医師からも退院許可をもらえたことを知ると腹を括り、横浜の仕事と東海市での私の必要最低限の介護を両立させることを決意した。
すでに、入浴や階段昇降以外は自立していたため、私の身体的な介護が必要な場面は、入浴だけであった。
しかし、外に出られない状況は大変不便であり、かつ患者さんの治療をどこで行うのかがネックになっていたので、長女がいないのは困る。
長女は私が在宅で治療の仕事を続けられるように、2階の生活スペースを短時間で大幅に改造した。
リビングで治療ができるように治療台を設置し、それまで座卓で食事をしていた空間をダイニングテーブルで食事や仕事ができるようにした。
絨毯も全てひっぺがして、段差のない環境を作り、コード類を片付けた。
これは、長女が長年リハビリテーション病院で介護の仕事をしていた経験の賜物であろう。
私がなるべく1人で不便なく生活できるように、必要な環境を惜しげもなく作ってくれたのである。
おかげで私は退院したばかりだというのに、患者さんの治療だけでなく家事仕事も早々に復帰できたのである。
長女は私が安全な環境にいることを見届けてから、横浜の仕事に行っては東海市に帰り、行っては帰りの生活を約1ヶ月半続け、リハビリ病院並みの介護サービスを私に提供した。
おかげさまで、2月にはすでに入浴も1人でできて、車の運転もできるまでに回復したのである。