治療家の祖母と過ごした幼少期

 

深澤洋子は昭和30年8月30日に

愛知県東海市で生まれた。

 

当時父は安月給のサラリーマンであり、

実家への仕送りもしていたため

家庭は貧乏であった。

 

母も洋子が生まれるとすぐに働きに出た。

 

洋子は父方の祖母に預けられ、

小学校に上がるまで

ほとんど祖母と生活と行動を共にした。

 

祖母は「吸い出し療法」を行う治療家であり、

様々な家庭に自ら出向いて治療を行なっていた。

 

吸い出し療法のイメージ

 

「吸い出し療法」というのは、

ガラスカップを患者さんに当てて

汚れている血を吸い取ることで

体をキレイにする治療法である。

 

血流が良くなるため、

肩こり腰痛を始め

様々な疾患に効果があるという。

 

洋子は治療現場に立ち会い、

吸い出される血を見て

 

「血は赤くなくて黒いんだなぁ・・・」

 

と幼心に思っていた。

 

祖母は「富山の薬売り」と言われる人から

膏薬を仕入れ、

それを大きなハマグリの貝殻に入れて持ち歩き、

必要な人に小分けしていた。

 

洋子は祖母と一緒に

真夏の暑い日も

真冬の寒い日も

家から遠いところでも

バスと歩きで様々な家庭に訪問した。

 

幼少期にたくさん歩いたおかげで

64歳になった今でも元気に働くことが出来ると

洋子は考えている。

 

洋子の祖母は、

飯場の賄い婦であった。

 

飯場というのは

建築現場の職人さんたちが寝泊まりする場所であり

そこで皆の食事を作って自らも寝泊まりしていた。

 

洋子も実の母が仕事で夜もいない時には

祖母と一緒に飯場で寝泊まりしていた。

 

洋子の母は小学校にすら行けない

貧しい家庭で生まれ育っており

文字の読み書きが出来なかった。

 

そのため、

仕事は屋台や居酒屋、お好み焼き屋といった

水商売をするしかなく、

夜はほとんど家にいなかった。

 

しかし、非常に頭の良い人であり、

お金の計算や人の心を掴む会話が得意であった。

 

その能力で自ら様々な店を経営していた。

 

洋子は小学校に上がる6歳まで

ほとんど父母と過ごさずに

治療家の祖母と一緒に過ごしていたのである。

 

 

 

 

 

 

(※この記事は深澤洋子の記憶から

書かれているものであり

事実との相違が多少ある可能性もあります。)

 

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